太宰治「人間失格」を読む

太宰治人間失格は中学生か高校生の頃に読んでそれ以来読んではいないがこの間本箱を整理していたら文庫本が出てきたので久し振りに読んでみた。

昔読んだときはどういう感想を持ったのか全く覚えていない。それ以来40年以上も読んでいないわけだから全く何も思わなかったのかあるいは嫌悪感とか侮蔑するような感想を思ったのかもしれない。

60歳を過ぎて再び読んでみて今回もまた何も感じなかった。何も感じなかったというのはおそらく主人公の気持ちとか堕ちていく過程に自分はそれほど違和感を感じなかったという事だろう。共感したわけでもなく嫌悪感を抱いたわけでもなくただただ淡々の読み進めていた。周りの人間の好意に知らず知らずに甘えて結局関わった人を不幸にしても自己嫌悪しか感じず責任とか反省をしない主人公に対して自分に近いものを感じたのだろうか、共感ではないが腑に落ちるものがあったのだろう。

わからないがもしかしたらもう一度近いうちに読むかもしれないそういう気にはなった。人間失格は若いうちに読んでもその意味がわからない年を取って自分の人生が失格だったと思う年齢になった時に読むともしかしたら意味が分かる稀有の小説かも知れない。

太宰治「人間失格」を読む

太宰治人間失格は中学生か高校生の頃に読んでそれ以来読んではいないがこの間本箱を整理していたら文庫本が出てきたので久し振りに読んでみた。

昔読んだときはどういう感想を持ったのか全く覚えていない。それ以来40年以上も読んでいないわけだから全く何も思わなかったのかあるいは嫌悪感とか侮蔑するような感想を思ったのかもしれない。

60歳を過ぎて再び読んでみて今回もまた何も感じなかった。何も感じなかったというのはおそらく主人公の気持ちとか堕ちていく過程に自分はそれほど違和感を感じなかったという事だろう。共感したわけでもなく嫌悪感を抱いたわけでもなくただただ淡々の読み進めていた。周りの人間の好意に知らず知らずに甘えて結局関わった人を不幸にしても自己嫌悪しか感じず責任とか反省をしない主人公に対して自分に近いものを感じたのだろうか、共感ではないが腑に落ちるものがあったのだろう。

わからないがもしかしたらもう一度近いうちに読むかもしれないそういう気にはなった。人間失格は若いうちに読んでもその意味がわからない年を取って自分の人生が失格だったと思う年齢になった時に読むともしかしたら意味が分かる稀有の小説かも知れない。

人魚のミイラ

 どこかの寺で保存されていた「人魚のミイラ」が科学的な方法で解析した結果、上半身は人工的に布とか土とかで作られていて下半身は魚でそれを結合したものと判明した。それはまあ人工的に作られたものだというのはだいたいの人がわかっていたことだろう。全国に人魚のミイラと言われているものは十数体あると言われている。中身はそれぞれ違うかも知れないがほとんどは人工的に作られたものだろう。

 このニュースを聞いたときにずいぶんと無粋なことをするもんだと思った。人魚が実在するなんて思っている人はほとんどいないだろう。それは今もそのミイラを作った江戸末期から明治までの時代の人も同じだろう。しかしそれが本物の人魚のミイラでないと知っていても寺とか神社で長い間保存されて拝まれてきたのは信仰の力だと思う。拝むものはなんでもいい。拝むという事が大事なのだ。そのミイラが本物の人魚のものではないとしても信仰の対象としてきた人にはどうでもいい話だろうし、人工的に作られたものだと解明されたとして一体なんだと言いたい。

 UFOもネッシーも雪男も実在しないかもしれないが、実在しないとしてもどうでもいい話である。UFOやネッシー雪男を見た人がいたという事だけ十分だ。未確認生物は未確認だから価値がある。正体を探るなど無粋な事はやめなさい。

マスク

マスクについては来月から個人の判断に任せるという事になった。

個人の判断に任せるという事は着用することも着用しないことも自由という事になる。

しかし様々な事情でマスクを着用しなくてはいけない人もいるだろう。

しかしその様々な事情というのは本人でなければわからないのでマスク着用をしていると、どうしてあの人はマスクをしているのだろうと訝しむ人も出てくるだろう。あるいは感染しているのではないかと疑われる人もでてくるかもしれない。

スーパーなどで多くの人がマスクをしていないのに一人マスクをしているとその人が白い目で見られる、あるいは店に入るのを遠慮してくれという事になるのではと恐れる。

マスクしなくてはいけない場所でマスクしない人が批判されることと、マスクしなくてもいい場所でマスクしている人が批判されるのは全く違う。前者は批判されるのは当然だが後者は不当な批判だ。

政府はもちろんメディアも「着用しなくてもいい」を強調するのではなくてあくまでも着用も着用しないのも自由という事を強調してもらいたい。